日本の香り文化から見た丁子風炉Ⅰ

元ポーラ化成工業(株)研究所 佐藤 孝(2020.4.)

 

 今まで日本の江戸期に作られた、ランビキ(陶磁器製)や丁子風炉の記事を掲載してまいりましたが、これらのものを日本の香り文化として見てみると西洋のものにはない大変ユニークな存在であると思われます。

 

ランビキと丁子風炉

 

 ランビキは蒸留器であり、現在のように香料植物から大量に香料を採る様なものではなく、江戸期に作られた日本のランビキは小型のもので香料を採取するというよりはエキスを採るというか植物の成分濃度を高める位の事しかなかったようです。特定の植物から消毒薬的なものを作ったり、日本酒を蒸留し焼酎にしてアルコール濃度を高め消毒用にしたり、また、色々な植物からランビキによって今でいう○○ウォーターといわれる芳香水を盛んに作り、薬として用いられ、その当時としては医薬的な分野でも貢献しています。

 西洋(オランダなど)から日本に伝わった時はガラス製などの小型のものだったそうですが日本ではガラスや金属よりも陶磁器の成型技術が進んでいたと推測されます。

 

 丁子風炉に関しても、現在でいうところのアロマポット、アロマディフューザーなどの芳香器という説明になるでしょうか。ランビキと同じく江戸期の18世紀から18世紀の中期ごろには使用されていたと推測されますが明確には分かっていません。陶磁器以外にも金属製のものもあります。ランビキ、丁子風炉の使用の仕方などは前回に掲載されたランビキ、丁字風炉に関するコラムでご高覧いただければ幸いです。

 

 そもそも日本の香り文化というと、真っ先に思い浮かべるのが香と線香ではないでしょうか。香は香道や香炉で香木の香りを聞くもので、線香は煙を通して宗教的儀式に使用されるのが一般的に知られているところです。因みに、香料、香水、芳香を表す英語Perfume(パフューム)の語源はper(through:通して)+fume(煙)、すなわち「煙を通して」という意味になります。太古の昔から大自然から火を得た先祖は、偶然香木を火にくべた時に得も言われぬ香りを発見し、香気が煙となって神秘的な力となり神に届くということから宗教的な儀式と結びついていったのではないでしょうか。

パフューム(香水)というと西洋の香りのイメージがありますが、香や線香の香りを聞く (嗅ぐ)ことで互いの香りを比較しながら、お互いの香り文化に触れ、改めて香りの奥深さを知ることができるのでないのでしょうか。

 

 今年は3回にわたって丁子風炉に関しての最近の調査研究から掲載したいと思っています。今回は最近の調査研究で、禁裏(宮中)の方が使用されていた丁字風炉と推測される、事例をご紹介したいと思います。この丁子風炉の件に関しては『日本調香技術普及協会』に問い合わせがあった案件でもあります。

 

 

大谷眞二氏 (以下、大谷氏)所蔵の白薩摩の丁子風炉について

 

平成31(2019)年が明けて早々、小春日和の日曜日、静岡市にある大谷氏のお宅をお訪ねしました。昨年暮れから大谷氏が所蔵されている丁子風炉(箱書には、丁子風呂と書かれている)の件で、私の所属している『日本調香技術普及協会』に冒頭でも記載したように、ご先祖の遺品の中に丁子風炉があり、どのようなものなのか教えていただきたいというお問い合わせのご連絡があり、その後のメールでのやりとりの中で、やはり実物を見て確証を得たいということと、実物でご説明をしたいということもあり大谷氏との面会が実現しました。

 

   

    白薩摩(薩摩焼) 大谷眞二氏蔵


 大谷氏から送られてきたメールの画像から、薩摩焼で作られた白薩摩の丁子風炉と思われました。那覇市立壺屋焼物博物館に収蔵されている、白薩摩の丁子風炉に良く似ていると思われたからで、現在、那覇市歴史博物館の主任学芸員、倉成多朗氏(以下、倉成氏)に画像を見ていただきましたが、倉成氏も白薩摩の丁子風炉ではないかということでありました。

 

 大谷氏の説明によりますと、明治天皇の生母である中山慶子(よしこ:1836~1907)(以下、慶子)の遺品の丁子風炉ということでした。慶子の父親は中山忠能(ただやす:1809~1888)(以下、忠能) で、江戸末期から明治に活躍した*-1討幕の密勅、公武合体派の公家として岩倉具視らと協力して王政復古大号令を実現させた人物であります。記憶に新しい一昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』にも登場(声優の緒方賢一氏が演じられました) したことでもいかに幕末の中心的人物であったことが窺えます。

 

 更に、大谷氏の説明によると、その忠能の長女が慶子で、四男にあたる中山治麿(はるまろ) (以下、治麿)が大谷氏の曽祖父に当たられます。治麿は華族から平民(その当時戸籍制度の記録から)になったため戸籍を大谷直(ちょく)と異姓改名して、中山家の家系図から外れて(書かれていません)います。その後、大谷氏の祖母に当たる大谷薫子(かおるこ:大谷直の二女)が明治末期に当時の宮内省からの連絡により、慶子の遺品が二条城(京都)で下賜されるということで大八車を仕立てて行き、長持などに入った遺品を拝領されましたが、その中の一つに丁子風炉(白薩摩)があったということです。その際の遺品に関する目録などはなく、あくまでも祖母からの伝承として聞いているということでありました。

 

 また、大谷氏が、治麿が平民(農)になり大谷直となった時の戸籍謄本の写しや、その当時の住所や名前が書かれた葉書や手紙などの写しも見せていただきました。  この丁子風炉は釜(水を入れる器)の外側の底の部分が黒く焦げた痕跡があることから、実際に使用していたと推測されます。

今まで、薩摩藩主が丁子風炉を徳川家関連から嫁いできた女性や諸大名家の嫁ぎ先の女性などに贈られていた記録はありましたが、慶子の遺品ということから、薩摩藩主が禁裏の女性にも丁子風炉を献上したと推測されますが、前述したように丁子風炉に関する書付や記録などが現存されていないため断定はできませんが可能性は高いと思われます。

 

 推測の域は出ませんが幕末の混乱期にも関わらず薩摩藩の丁子風炉外交があったのでないかと思われました。また、薩摩焼の丁子風炉には色々なパターンの丁子風炉がありますが、何故、白薩摩の丁子風炉だったのか、何か意味あってのことだったのか、興味深く感じられました。予定の時間よりも伸びてしまいましたが無事調査は終わりました。

 

 今回の禁裏関連の丁字風炉が薩摩焼のものであり、京焼の丁子風炉でなかったことは意外な感じもしましたが、実際に丁子風炉を目の前にし、禁裏の女性が使用していたと思うと感慨深いものがありました。(画像参照)

 

 今回、『日本調香技術普及協会』を通して丁子風炉のご質問いただき、この丁子風炉が禁裏関連のもので、それも中山慶子の遺品ということで緊張せざるを得なかったですが、大谷氏が気さくに対応していただき、このような貴重な丁子風炉とそれに纏わる背景が調査できたことに大変ありがたく思っています。今後も丁子風炉を通して、日本の香り文化の調査研究を続けて行きたいと思っています。

 

*-1討幕の密勅(とうばくのみっちょく) 江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、薩摩藩と長州藩に*-2秘密裡に下された、徳川慶喜

 討伐の*-3詔書、または*-4綸旨である。

*-2秘密裡(ひみつり) 人に知られないで物事が行われる状態。

*-3詔書(しょうしょ) 国の機関としての天皇の意思表示の公文書で、一般に公示されるもの。

*-4綸旨(りんじ) 天皇の意を、秘書的役割を果たし役人が発給した命令文書。

 

この文章は『香料産業新聞』「その後の丁子風炉調査研究について」(令和元年7月5日~8月5日発行)に掲載した一部を修正抜粋したものです。