調香師 森 日南雄(2018.5.23.)
懐かしい子供時代の原風景(光景)とそれに伴う匂いの記憶、さしずめ「原香景」とでも呼んでおこう。
寺田寅彦は、随筆<匂いの追憶>の中の一節で、「嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないと思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊な匂いを嗅ぐと、自分はどういうものか、三つ四つのころに住んでいた名古屋の町に関するいろいろな記憶をよびおこされる。」と述べているように、彼や、かのプルーストならずとも、ある匂いを嗅いだとき、不意に、子供時代の懐かしい光景が蘇ってくることはどなたでもお持ちであろう。
この齢になると、ゴーガンがタヒチで遺書のつもりで描いた、有名な絵<我々は何処から来たのか? 我々は何者か? 我々は何処へ行くのか?>ではないが、己のルーツを無性に知りたくなる。過去の記憶を辿っていくと、必ずと言っていいほど、野山で自由に遊びまわっていた、懐かしい子供時代の原香景に行き着く。ヒトも昆虫や爬虫類と同様、発生学的には嗅覚器官が最初にでき、胎児のときにはすでに羊水の匂いを、この世に生まれてからは、最初に遭遇する大気と母乳の匂いを嗅いだであろう。勿論、自分にはこの記憶は残っていないが、恐らく潜在意識下に沈潜して無意識のうちに精神に影響を及ぼしているのではなかろうか。
以下、子供時代に出逢った原香景を思いつくままに辿ってみた。
最初に思い出される原香景
朧げではあるが、最初に思い出される原香景は、戦禍を避けて東京から岡山へ一昼夜かけて疎開した時に、母に背負われて乗った、すし詰めの列車の窓から入ってくる蒸気機関車の煤煙の焦げたにおいであったか、あるいは、防空頭巾を被って防空壕に隠れた時の、湿った黴臭い土の匂いだったのか?今となっては定かではない。
戦後、しばらくして、父の転勤に伴い、神奈川の秦野に引っ越すことになるが、富士を西に望む、丹沢連峰の懐に抱かれた自然豊かなこの地における子供時代の原体験が、折に触れ、原風景ならぬ原香景となって懐かしく思い起こされる。当時、社宅だった家の周りは、多くが藁葺き屋根の農家だった。火山灰地の土壌では専売品の葉煙草や名産の落花生が盛んに栽培されていた。里芋の葉の大きさほどの煙草の生葉は、一本の長い荒縄に一枚一枚挟んで天日干しするが、急に雨が降り出すと直ぐに取り込まねばならない。
それが何十連ともなると農家の家族だけでは間に合わず、よく手伝いに行った。その時、手に付いた乾燥葉の甘い葉巻のような匂いは忘れがたい。大人の真似事をしようと、落ちていた屑葉を丸め、マッチで火をつけてこっそり吸ってはみたが、味わうどころか、煙にむせて頭がクラクラした苦い思い出しかない。同じ煙でも、落ち葉焚きの煙の匂いは、どこか郷愁を覚え、身を清めてくれるようで、いつ嗅いでも好きだ。「per fume」の語源が“煙を通して”から来ているように、大昔から、ヒトは、このニオイを、穢れを落としてくれる特別なものとして本能的に感じていたのではないだろうか。
天日干し風景
秦野たばこ資料展より(秦野市official website)
香り豊かな裏山は子供たちの遊び場
盆地の南側を東西に走る小高い裏山は、家から近く、子供達の恰好の遊 び場だった。
コナラ、クヌギ、杉、檜、ヒバ、ウルシ、山栗、くるみ、山桜など様々な木々が混在する鬱蒼とした緑豊かな自然林で、一歩足を踏み入れると、
冷んやりとした空気、足元から立ちのぼってくる落葉、苔、土の匂い、木々の発散する清々しい匂いが渾然一体となって立ち込めていて、身も心も
癒された。特に、群生する白い山百合の花が咲く夏の頃、その辺り一面は甘い香りが漂い別世界のようだった。
お花見の季節になると、子供たちは組ごとに分かれ、手作りの木刀や竹光でチャンバラごっこをやったり、樹上に、枝葉で見張り小屋を作り、蔓にぶら下がり「アーアーアーツ!」と叫びながら隣の木に飛び移りターザンの真似ごとをしたりと、日が暮れるのも忘れて遊び回った。ある時は、穴を開けた竹筒にカーバイトと水を入れ、発生するアセチレンガスに恐る恐るマッチで点火すると、大きな爆発音とともにロケットが飛ぶ?という、今なら考えられない危ない遊びもやった。その硫黄のようなアセチレンの臭いを嗅ぐと、どういう訳か、青白く燃えるアセチレンガスランプが灯る夜店の光景が瞼に浮かんでくる。
模型飛行機の燃料は合成麝香の原料だった
遊び道具のほとんどは、いつも持ち歩いていた折り畳み式の小刀“肥後守”や鋸で作った。プラスチックが普及していなかった時代、材料は工作用の細い木材、竹ヒゴ、ゴム、和紙、銅鉄の針金などの自然素材がほとんどで、竹トンボ、吹き矢、山吹の芯を弾として使う山吹鉄砲、竹笛などの簡単な小さなものから、ゴム動力のプロペラ飛行機、グライダーやワイヤーで牽引旋回させる模型飛行機(Uコン)、戦艦などの手間暇が掛かる大きなものまで様々、とりわけ、Uコンに搭載した排気量10ccほどの超小型エンジンに使う燃料の陶酔感を伴う甘い匂いは、甲高い音を立てて高速で回るプロペラの音と共に忘れられない。この匂いは後年知ったが、燃料の一成分として使われていた、合成麝香ニトロムスクの原料となったニトロベンゼンだったようだった。
鼻をつまむようなクサイ臭いの原香景
さて、ここからは、鼻をつまむようなクサイ臭いの原香景をひとつご披露しよう。
当時、便所はどの家もボットン式の汲み取り型で、周りの農家は溜まった屎尿を汲み取り、下肥えとして農作物の根元に撒いていた。戦後の食糧難もあって、我が家も背に腹は変えられず、畑を借りて何でも作った。当然、肥料は下肥えを使うのだが、溜まった屎尿を定期的に汲み取らねばならない。これは兄弟で分担した。便壺から柄杓で肥桶に汲み取るのだが、眼にしみるアンモニア臭と混じったその臭いには閉口、鼻をつまみながらへっぴり腰で肥桶を担ぎ、作物の根元に撒いた。その時の臭いは、今だに体に染み込んでいるようで忘れることはできない。有機栽培がもてはやされる今日、それは、思えば、農薬、化成肥料を使わない循環型有機農法であった。ところが、これにはおまけがついた。収穫した作物には回虫の卵が付いており、食すれば、お腹で卵が孵り回虫となって住みつく。その時代のほとんどの子供たちのお腹には回虫が寄生していた。 学校では、その駆除のため、海藻の一種“海人草”のどろっとした煎じ液を全員飲まされた。その独特のクサイ臭いとその苦さは耐え難く、今思い出しても口中(くちじゅう)が苦くなる。
クサイ臭いの話はこの辺にして、最後は、苦い口を漱ぐため美味しい水の話で締め括ろう。
丹沢山地が生み出す日本一の名水
水道が普及していなかった当時、各家には井戸があり、つるべや手押しポンプで水を汲みあげて飲み水、煮炊き、洗濯などの生活用水として使っていた。その味と匂いは、まろやかで、みずみずしく、本当に美味しかった。水温は一年を通して15℃前後、夏冷たく、冬温かく、夏はスイカや干物などを冷やすため井戸に吊るして冷蔵庫代わりとして使った。
秦野の水は、後年、全国名水百選で第一位となり、そのおいしさが全国的に知られるようになるが、これは、丹沢山地を源流とする河川の水が、伏流水となって地下水になり、盆地全体が湧水群となっているお陰である。一時、工場や家庭からの廃水による地下水汚染に見舞われ、名水が存亡の危機に立たされたが、環境規制の強化により改善されて名水は復活、“丹沢の雫“として人気を呼んでいる。
願わくは自然が生み出すこの名水がいつまでも絶えることなく湧き続けますように!
丹沢名水 ”竜神の泉" (秦野市official website)
ヴァーチャル世代の子供たちの原香景は?
調香の原点は、“素材に始まり、素材に終わる”と常々思っている筆者であるが、同様に、香りの創作イメージを思い描き、調香する時、五感を通して自然の素材から学んだ子供時代の原体験が発想の源になっていることに改めて気付き、只々、自然の恩恵に感謝するばかりである。
今日、物が溢れ、人間により汚染された地球環境は悪化の一途を辿っているが、インターネットを始めとするヴァーチャルな世界に曝されている子供たちが、将来、大人になり、人生を振り返ってみた時、どのような原香景が繰り広げられているのであろうか?