臭いと匂いの狭間で40有余年

調香師 森 日南雄(2014.1.)

 

 昨今、香水をはじめとして日用雑貨品に至るまで、実に多岐にわたる香りを謳った製品が市場を賑わしている。それと合わせて、香りに関心を示す消費者も多くなり、今や香りブームの様相を呈しているが、40年以上前の状況を知るものとしては、感慨深いものがある。

 

 小生が就職活動をしていた当時、試験を受けてたまたま採用された会社が香料会社であったが、それまで、香料とか、ましてや調香師という職業が存在することすら知らなかった。それが、今では調香師といえば誰でも見聞きするようになり、特に、関心がある若者にとっては、憧れの仕事でもあるらしく、隔世の感がある。

 

香水だけではない、調香のルーツ

 

 一口に、「かおり」といっても、香水のようにいい匂いばかりではない、田舎の香水ならぬ下肥の臭いもある。フレグランスの分野では、もっぱら快い香りを追い求めて世界が繰り広げられるが、においの歴史を紐解くと、それは常に悪臭との戦いの末、生まれた世界であることがわかる。

 

 今でこそ、花の都と云われるパリは、下水道が普及する19世紀までは、悪臭紛々たる、汚物にまみれた街であった。庶民の家はもとより、ヴェルサイユ宮殿といえども、トイレはなく、王侯貴族たちは中庭のそこらで用を足していた。また、彼らは、チーズや鳥獣の肉などを主食とし、その上、風呂に入る習慣などもないので、身体が発するニオイはよほど臭かったに違いない。

 

 この辺りから上流階級のブルジョワー達は、必要に迫られて、この瘴気を抑えるため、それまでの強い麝香のような香水に代わって、スミレ、スズラン、ヒアシンスなどのフローラル調の香水を使い始め流行した。悲しいかな、人間はヒトという動物である以上、時代を問わず、この身体から排泄される臭いとは切っても切れない関係にあるのだ。以下、長年、においの仕事に携わり、経験した中で、臭いと匂いに焦点を当ててその一端をお話ししたいと思う。

 

とても地味な調香師という仕事

 

 入社して最初に配属されたところは、香粧品研究部の工業品研究室という、化粧品用途以外の消臭剤や入浴剤用中心の香料開発の研究室であった。そこは、調香の仕事だけではなく、併せて消臭剤や入浴剤などの基剤の研究開発もやっていた。調香師本来の仕事としてはどちらかというと本流から外れた部署かなと当時は思っていた。

 

 会社は国内大手3社の内の1社であったが、創業者の社長が先取気鋭に富んだ人で当時としては珍しく、フランス人調香師を本国から招き、専用の特別研究室を設け、大手化粧品会社向けの専任の調香業務に当たらせていた。まだ日本の香料業界が欧米から見れば後進国と看做されていた時代であった。

 

 また、戦前、天然香料が輸入できなくなると、国産の天然香料を作ろうと栽培適地を探して、北海道では、ハマナス、ラベンダー、シソ、青森でメープル、八丈島でヴェチバー、小豆島でゼラニュウム、はたまた、海外でも当時植民地であった台湾でジャスミン、チュベローズなどを手掛けた。

しかし、戦後、海外から安価な天然香料が輸入され始めると採算が合わなくなり、栽培をあきらめざるを得なかった。今ではすっかり有名になった観光スポット北海道富良野のラベンダー畑は、T氏のラベンダーに賭ける情熱と熱意のお蔭で、これらの農場のうちの奇跡的に生き残ったひとつである。

 また、小生も後年関わることになる大環状合成麝香(ムスク)の研究を東大の先生の指導のもと、安価にできる新規製法を開発、海外大手香料会社に逆に輸出するなど、合成ムスクの分野では世界に知られる存在となった。

 

今となっては・・・強烈な思い出

 

 話が少々脱線したが、研究室では、調香業務と併せて消臭剤、入浴剤などの基剤開発もやるという、いわゆる、二足の草鞋を履いてこの世界に入った訳である。調香といっても、ちゃんとした教育システムがある訳ではなく、最初は香料原料の匂い覚えから始まって、先輩の処方を参考に、見よう見真似でやるしかなかった。

 

 一方、基剤や悪臭関連の研究開発は、いろいろなものをやったが、その中で、忘れられない思い出として残っているのは、チームの一員として仕事をした消臭剤の開発であった。まだ水洗便所が普及していないその当時、一般の家庭のトイレはドボン式の、時にはお釣りがくる汲み取り式が主流で、おまけに目に沁みるその臭さに辟易した経験はどなたでもお持ちだろう。このクサイ臭いを消して、いい匂いをつけた今までにない消臭剤を作ろうということで企画を立ち上げ、まず、実際のウンチやオシッコの屎尿の臭いの正体を突きとめることから始めた。

 

 一般家庭の協力を得て屎尿を20Lの灯油タンクに汲み取り、それを研究室に持ち帰り、悪臭ガス用検知管を用い、アンモニア、トリメチルアミン、硫化水素などのガス濃度を測定した。この時、併せて行った滴定による化学分析のため、屎尿を減圧蒸留中、受器のフラスコが破裂、屎尿が糞尿弾となって飛び散り頭から洗礼を浴びた、とんだハプニングがあったことは忘れもしない。また同時に、この屎尿の臭いをマスキングできる香料を探すため、ビーカーに屎尿を入れ、香料を添加後、鼻で嗅ぎ、判定するという、今から思い出してもオエーとするようなスクリーニングを仲間と繰り返し、このデータに基づき調香して、何とか目的に適った香りを作り上げることができた。

 

 悪臭を化学的に中和し元から断ち、加えて、それまでのトイレの消臭剤の香りとはまったく違う新しい香りをつけた消臭剤として完成、持ち込んだ会社に採用され、予想を超えるヒット商品となった。

 

本場の調香を学びにフランスへ

 

 さて、臭い話はこのあたりにして、その後、小生が本格的に調香師として活動を始めることになったキッカケについて少しお話ししよう。

1975年、会社の業績があまり芳しくない状況のなか、どういう訳か、二番目のフランスでの研修生としての機会を与えられ、渡仏、香料のメッカといわれる南仏グラースにある香料会社ルールデュポンの香料学校で調香の基礎をゼロから学んだ。基本的な天然香料、合成香料、ベース類など、合わせて数百種類の匂いを毎日繰り返し覚えることから始まって、それらを組み合わせて作る簡単なジャスミン、ローズを始めとする各種花々のアコードによる匂いのハーモニーの訓練、さらに、進んで、ベース作りや香水のイミテーションの勉強に入るが、これから先は、調香師本来の仕事であるクリエーションの茨の道を歩むことになる。

 

 調香師としてひとり立ちするには、最低10年はかかるとよく言われる。この会社で6ヶ月、もう一社で、主任調香師による直接の個人指導で3ヶ月、ほかを合わせ計10ヶ月ほど、普段の仕事を離れ自由に学び、遊び、いろんな体験することができた。そこは、時間がゆっくりと流れ、何よりも街全体が香りに包まれ、吹く風も馨しく、素晴らしい環境で勉強できたことは幸せであった。研修に送り出してくれた諸先輩、快く受け入れお世話になった香料会社、加えて、忘れられない沢山の思い出を作ることができたグラースの街に心から感謝したい。

 

 臭いと匂いの世界での以上の経験は、折に触れ懐かしい思い出となって蘇り、それが肥やしとなって、加齢臭と戦いながら現在も続けているクリエーションの仕事のエネルギーとなってじんわりと効いていることは間違いない。

 

                  

           グラース旧市街市場 “風の広場”                    グラース風景

 

 いま、この歳になってつくづく思うことは、いろいろ学んだ技術以上に、南仏グラースの馨しい空気をこの身体で吸い込み、感じることができたこと、はじめて海外に出て世界観がガラットと変わったことである。これらが何よりの宝物となっている。

“百聞は一見に如かず”ならぬ“百聞は一嗅に如かず”でしょうか。