グラス便り 1章

 

「グラス便り」のスタートについて (2013年5月~)

 

日本調香技術普及協会(JSPT)では、新しく「グラス便り」というコラムを掲載して行くことになりました。

このコラムは、1979年から現在に至るまでの40年近くの長い期間、グラス市に本社を構える香料会社であるCharabot社(シャラボ社)に勤務し、現地の女性と結婚されて、生活の拠点もグラス市内という、加藤常治氏のご厚意で実現しました。加藤氏は、1973年の慶応大学仏文科4年生の時の夏休みを利用して1度グラスのシャラボ社を訪問し、その後1974年3月の大学卒業後に半年ほどシャラボ社でアルバイト兼研修をされて、その後は日本の香料会社で6年ほど勤務され、1979年に再びシャラボ社の門を叩き入社されて今日に至っておられます。

 

このコラムでは、“イントロダクション”として加藤氏が初めてグラスを訪問した1973年から今日に至るまでのグラスの町の変わり様を、当時の様々なエピソードも交えながら書いて頂いた日記的なコラムを4回ほど掲載する予定です。懐かしい当時のグラスや香料会社の写真なども載せて頂けるようです。その後は最近のグラスの事情や、フランス国内、あるいはヨーロッパでの新しい動きなどを、氏の目から見たルポルタージュ的なコラムとして掲載していく予定です。どうぞご期待ください!

 

グラス便り 1章 初めてのグラス~40年前から今日まで

 

フランス・グラス市より 加藤常治(シャラボ・フランス) 2013年5月掲載

 

 1950~60年代のシャラボ社調合香料製造工場       

現在のシャラボ社から眺めたグラス旧市街の町並みと周りの景色

(遠くに地中海が見れます)


 

出 発

 

  私がフランス行きを思い立ったのは慶応大学仏文科在学中の1973年のことで、夏休みを利用しての生まれて初めての海外旅行でした。当時は

 まだ成田空港もなく、就航したばかりのジャンボジェットのチャーター便に乗って羽田空港から出発しました。空路もそれまでの南回りに比べて

 ずっと短時間の、最近出来たアラスカのアンカレジ経由というものでした。乗っているのは学生ばかり、ジャンボジェットもチャーター便なので

 2階部分はサロンになっていて、皆ソファーにふんぞり返ったり、見るもの、聞くものに新鮮な喜びを満喫する昭和の時代でした。同乗している

 キャビンアテンダントも学生と同じ位の年齢ですので、一緒にキャビンの窓からアラスカの景色を見たりしながらおしゃべりをして仕事をさぼって 

 いました。

 

   この時代の人達は結構サボりながら仕事をしていたように覚えています。香料会社の資材課長をしていた父などは高校野球の季節になると、

 オフィスを近くの喫茶店に移して、そこで納入業者の方達と白黒のテレビ中継を見ていました。これは日本だけでなくグラスでも同じで、日本など

 から訪問客があると昼間片道小一時間掛けてレストランに行ってゆっくり仕事をして、帰りがけにジャスミン畑など見ていくものですから、会社に

 戻ってくるのは夕方になり、“その日の仕事はおしまい”ということがよくありました。きっとこの時代は時間がもっとゆっくり流れていたのでしょ

 う。

 

  さて、19時間ほどかけてパリはオルリー空港に到着。シャルルドゴール空港が開くのは翌年1974年春でした。パリから当日夕刻9時の夜行列車

 Train Bleuに乗って12時間後、翌日の朝9時にカンヌ駅に到着。いよいよグラスです。今から思うと“若かった”の一語に尽きる旅でした。

 

グラス・・その初印象

 

  グラスの町は今もその当時と殆ど変わらない風景ですが、私がグラスに到着しての第一印象は銀行と美容院がとても沢山ある地方都市という印象

 でした。実際そのころはグラスの香料産業が非常に活況を呈していたし、まだ石油ショックを知らない世界でした。グラスの企業の総売り上げを

 人口で割ると住民一人当たりの売り上げが出ますが、これが当時グラスがフランスで一番高額だったそうです。今では建物だけしか残っていません

 が、フランス国立銀行の支店もグラスにあった位で当時は相当な金額がグラスに流れ込んでいたのでしょう。

 

  また美容院が多いと書きましたが、当時のマダムは週に一度位の割合で美容院に行き、おしゃべりをしながら髪を結ってもらっていました。

 帰りがけに店の女の子達全員に5フランのチップを渡している女性も居たくらいでお金がうなっていました。まだ1フラン60円の時代で、私達グラ

 ス研修の日本人は大事にその5フラン硬貨を貯めては、週に一度近くの公衆電話から日本の家族に電話をするのですが、10秒に1枚位のスピードで

 硬貨がどんどん減っていくのをさびしく眺めながらの国際通話・・という時代でした。

 

  グラスの代表的香料会社といえば、当時ルールデュポン、メロボワボ、UOPシリス、ローチエ、シャラボ、更にベルトランフレール、トンバレ

 ル、マンフィスなどがあり、恐らく町の人口の2割位は直接香料に関わっていました。当時の人口が3万人位ですのでおよそ6000人は香料に関与し 

 ていたことになります。これはひとえにその頃のグラス地方経済が、そのインフラも含めて香料に全く依存していたことによります。上述の香料

 会社で大きなところで800人位、中程度の会社でも200人程度は雇用していましたし、それ以外にローズ、ジャスミン、バイオレット、チュベロー

 ズ、ヒアシンスなどを栽培していた農家、ミモザ、ジュネなど野生の花の収穫業者、花を集めてくるコレクターと呼ばれる業者、花摘みの季節労働

 者、蒸留、抽出機械の生産メーカー、アルミ缶、ブリキ缶の製造メーカー、ガラス瓶卸業者、更にはガラス瓶、花を入れる籐のかごを作る業者な

 ど実に多くの業種がこの小さな町とその周辺にひしめいていました。香料会社に働いている人達も「誰々は籐籠屋の息子」だとか、「あの娘の親

 はローズを栽培している」などと、業種のつながり以外に個人個人がそれぞれ複雑に香料産業の中に入り込んでいました。私の家内はグラス生まれ

 のグラス育ちで、日曜日によく家族が集まって食事をするのですが、叔父、伯母、いとこ、兄弟など皆集まるとその半分以上は香料会社に勤めてい 

 ました。ですので外部に秘密が漏れにくいのと、内部では秘密も何もあったものではなく、皆筒抜けになっていました。

 

グラスの花畑

 

懐かしい、グラスの花摘み風景

チュベローズ畑

ジャスミン畑


 

フランス地方経済の典型:グラース

 

   私がグラースに来た頃、既にこの町の産業に少し翳りが出てきました。それはグラース以外の資本が入り始め、一社ずつグラースの香料会社が

 外資に売られ始めた頃でした。グラースで最も歴史のあるアントワンシリスはアメリカ資本に売られ、ブルノクールは既に存在せず、跡地はスー

 パーマーケット“モノプリ”になっていました。その後間もなく、シリス、トンバレル、メロボアボなど数社がサノフィグループに買い取られ、

 ショーベーはフィルメニッヒに、更にルールはジボダンと一緒になるなど、少しずつ地元資本が消えていくことになります。

 

   グラース生まれのお年寄りに戦後間もない最盛期の頃の話を聞いたことがあるのですが、工場の退け時の夕方になると、グラース駅に一番近い

 トンバレル、その上のカミリ、ルール、シリスが在ったので、駅からグラースの旧市街に至る大通りは、毎日歩いて帰宅する人達で一杯になった

 そうです。

 

   私の働いているシャラボ社はグラース旧市街を見下ろす位置にありますが、ここからグラースを見ると町全体が19世紀の地方軽工業地域の形を 

 そのまま残していることに気付きます。12世紀に建てられた教会を中心とした旧市街に労働人口が住み、それを取り巻くように香料会社の建物が

 あったのがよくわかります。当然様々な店も旧市街にあり、工場で働いた給料の大部分は町の中で使われ、町を取り巻く畑から花が持ち込まれ、

 更に遠くから様々な香料原料が輸入され、町で加工され、世界中に輸出されていきました。まるで、町自体が巨大な利益製造マシーンのように見

 えます。

 

   恐らく、私がグラースで見ている工業モデルは過ぎ去りし昔の工業モデルでしょうが、グラースの独立資本の香料会社がひとつまたひとつと

 消えて行き、旧市街から何十年も続いていた小売店がフランチャイズショップに変わり、グラースの住民が皆近郊のスーパーマーケットで買い物を

 しているのを見るにつけ、こうして皆が使っていくお金はどこに行くのだろうと考えざるを得ません。昔の方が、お金が町の中で循環していたと

 思うのは私の時代遅れのノスタルジーがそう思わせるのでしょうか?

 

グラースと花

 

   戦前の1930年代には、ローズの畑だけでもニースからサントロペの方まで数千ヘクタールあったそうです。 私がグラースに来た当初は、カンヌ

 とグラースの間の国道沿いにも花畑が多くあり、車でずっとグラースに向けて上がっていくときに、ジャスミンの香りが車の中まで漂ってきたこと

 を覚えています。当時は車にエアコンが装備されておらず、窓を開けなくては暑くてたまらなかったのですが、その花畑も今ではすっかり少なくな

 り、ローズ畑など現在残っているものは最盛期の約1%の数十ヘクタールに過ぎないとのことです。

 

   このままでは10年もしないうちにグラース近辺の香料畑は全て消えてしまうだろうと思っていましたが、最近新しい動きがあります。 シャネル

 は数十年前からグラースのジャスミンとローズの栽培農家と独占契約を結び、アブソリュートを畑に隣接した工場で抽出してきました。これは、

 シャネルの香水の中にはフランス製のジャスミンとローズが入っているということを実際に裏付けること、更には企業倫理責任の観点からも、フラ

 ンスの地元産業の保全と育成に力を入れているというアピールにもなっているかと思います。

 

   ごく最近、この畑でイリス、ゼラニウムそしてチュベローズの栽培が始まりました。それぞれ数千株ですが、近い将来これらの植物からもアブ

 ソリュートを取るようです。これとほぼ同時に、ディオールはグラース近郊の別の畑と独占契約を結び、やはりジャスミンとローズを買っています

 し、更に別の新しい畑とも契約を結んだと聞きます。近い将来グラースにディオールの研究所を作るような話も耳にします。 同じLVMHグループの

 ルイヴィトンはグラースの中心部にある古い建物を改築中で、数年後にはここを研究所にしてヴィトンの香水を出すそうです。